2008/02/06
日本経済新聞 夕刊 22ページ

引っ越し9回、心のカギは1つ
夜、帰宅して玄関のカギを開ける。次の儀式は決まっている。カギをぶら下げたキーホルダーを食卓の端にあるトレイに置く。場所は必ずここ。結婚指輪も外して一緒に。翌朝、二つを忘れず身に着けて出る。
二十五年前、結婚披露宴を催した帝国ホテルから贈られた記念品だ。当時は銀色に輝いていた。ホテルの人に「今もお持ちの方はほかにおられません」 と驚かれたのが十年近く前。随分すり減ったし、取り付け部分は何度か修理もした。
たまたまその一時期、新婚夫婦にキーホルダーを贈っていたそうだ。詳しくは分からないが、ホテルのルームキーをかたどったものと聞いたような気もする。もらったのは一つだけ。 家内は専業主婦で、帰りが遅い勤め人の私が自然と持つことに。「絶対になくさないでね」と厳命が下った。
以来、手放したことがない。これを持たせておけば、亭主はどんなに遅くなっても無事に帰ってくる。そんな心のカギでもあるような、おまじないみたいなものかも知れない。たまにあわてて持って出るのを忘れると、 こちらも気になり、家に電話して「ある?」と確かめずにいられない。
結婚以来九回、住まいを転々と移ってきた。建設省から千葉県警や茨城県庁に出向して東京と行ったり来たり。本省勤務でも官舎からマンションへとあちこち。子供はおらず、ずっと二人だ。教育問題の心配などはないが、なぜか突然の引っ越しが多く、手際が随分良くなった。 そんな思い出がすべてこれに詰まっている。
とりわけあわただしかったのは岩手県知事選に出馬を決め、急きょ盛岡に移った時だ。四十平方メートルほどのワンルームを物件を見もせずに借り、名刺を片手に毎日百軒以上、あいさつに回り始めた。最初の一カ月ほどはやむなく一人暮らし。その間もキーホルダーはポケットにあった。
実は一度、なくしかけたことがある。知事時代に米国に出張し、サンフランシスコの空港で油断してアタッシェケースごと盗まれた。落ち込んで三週間後、 捨てられたアタッシェが見つかった。現金以外の中身は無事だった。なおさら、手放せなくなったのは言うまでもない。