2008/02/05
日本経済新聞 夕刊 18ページ

でっかい「岩手」との出会い 
でっかいなあ。一九六○年代初めの夏休み。小学生はその大きさと風格に圧倒された。見上げていたのは日本の競馬史上、皐月賞、ダービー、 菊花賞のクラシック三冠を初めてなしとげた名馬セントライトだ。
私は東京で生まれ育ち、祖父や父の故郷である岩手は「帰るところ」ではなく「行くところ」だった。この年、祖父に連れられて初めて訪れた。 上野から盛岡まで蒸気機関車の急行で約十二時間。「すごい名馬がいるぞ」と言われ、着くと真っ先に飛んで行った。
県の畜産試験場。特別の厩舎で大事そうに飼われていた。三冠達成が日米開戦直前の一九四一年。死んだのは六五年だから、かなり晩年の姿だ。それでもすらりと伸びた四肢。ぴんと張った背筋。 並みいる他の馬を圧するオーラをたたえたサラブレッドが鮮烈な「岩手」との出会いだった。
岩手は昔から馬産地として知られる。当時も親戚(しんせき)の農家には足の太い農耕馬がいた。百頭近くが華やかに着飾り、鈴の音を響かせて進む「チャグチャグ馬コ」は今も盛岡の初夏を代表するお祭り。 加えて競走馬の伝統も知る人ぞ知るだ。
セントライトを生んだのは岩手山南麓に広がる小岩井農場だ。今は牛などのイメージが強いかと思うが、戦前は育馬事業に大変力を入れていた。軍馬用の馬匹(ばひつ) 改良という国策の後押しも受けていたが、優れた競走馬もたくさん育て、ほかにもダービー馬などを何頭も輩出した。
敗戦後の四九年、占領政策の一環で小岩井は馬の生産中止を命じられた。セントライトも県試験場に移り、種牡馬としては環境に恵まれず、やや不遇な後年だったらしい。幼い私が目に焼き付けた雄姿は、岩手の競走馬の歴史が沈み行く残照でもあったのだろう。
知事になって乗馬も始めた。馬との因縁は続く。岩手競馬の存廃問題が県政の難題として浮上したのだ。
競馬場を二カ所持ち、抱える馬の数も人員も地方競馬ではトップ級。累積赤字に悩みながら、やめる踏ん切りはなかなかつかないで来た。馬産地の伝統への県民の思い入れも格別だ。県の融資でしばらく続けてみよう。その決断が知事として最後の仕事になった。